今月も、江戸時代に城下町だったエリアを歩いている
「てくてくこうふ」
今週は、甲府城から移築したといわれる「門」がある
お寺、慶長院に来ています。
今回も、甲府市教育委員会の金子誠司さんに
お話を伺います。
この日も日差しが眩しかった…
慶長院は、甲府市朝日三丁目 旧横沢町にあり、
平安年間に創建されたと言われています。
甲府の府内観音14番札所となっていたところです。
「府内観音」とは、昔に四国八十八か所巡りなどの
大規模な巡礼地を真似て移した、移し巡礼地と呼ばれるもの。
遠くにある巡礼地に行けないひとのために、
作られたものだそうです。
さて、慶長院は、府内観音としてだけではなく、
甲府城から移築した門がある場所としても知られています。
お寺にある、冠木門は甲府城の乾門、あるいは黒門であったといわれています。
乾門の「乾」とは方角を指しています。甲府城に、乾櫓というものがあり、
おそらく、この乾櫓に入るための門であったと思われるそうです。
また、黒門は、門の色が黒いから、黒門と言われています。
どこにあったのかは、定かではないのですが、
お城の北側にあった山の手御門というところではないか、と言われています。
まだまだ諸説あって、はっきりしないことがあるみたいですね。
門は、よく見るとそこまで大きいわけではなく、
どちらかと言うと、武家屋敷にあるようなシンプルだけど
風格があるものです。
門が慶長院に移築されるのは明治時代になってから。
明治5年の甲府城の跡地が陸軍のものになり、
明治6年に甲府城の内部たけを残して、他は撤去されることになった、
というのが、キッカケかもしれないといわれています。
もし、こちらが甲府城の門だったなら、空襲も乗り越えた
貴重なものになりますね。
さて、慶長院のある、旧横沢町は、江戸時代には
雛人形・五月飾兜、そしておもちゃなどを作る職人が
住んでいた町です。
幕末に「横沢雛」というものが名物になります。
このお雛様、別名を「花背負い雛」といい、
背に桃の花の枝を添えた小さい雛人形です。
なんだかとてもかわいいお雛さまだったように思いますが
大正時代に途絶えてしまうようです。
その他にも、甲州だるまも作られていました。
このだるま、紙は市川大門の和紙が使われたいたそうです。
ひな人形づくりの経験を活かした名人が住んでいたそうですよ。
慶長院の門、そして職人が住んでいた町、
旧横沢町も面白い場所だったのですね。
また来週も、てくてくします。