今月からの3か月間は、
江戸時代に城下町だったエリアをご紹介していきます。
先週に引き続き、舞鶴城公園にいます。
柳沢親子によって、江戸時代に再整備された甲府城ですが、
現在のように公園として整備されるまで、
どのような道のりを辿っていったのでしょうか?
今回も、甲府市 教育委員会 歴史文化財課の
金子誠司さんに、お話を伺います。
柳沢吉保・吉里親子は、城内の石垣・門・塀・土手などの
改修を行いました。
その後、本丸御殿などの改築を行いましたが、
六義園や江戸屋敷を担当した大工・絵師など、
一流の人物が甲府城に携わっています。
さて、時代が下り、明治維新の時代になると、
明治新政府の官軍に加わっていた土佐・因幡・諏訪藩などの兵が
甲府に入り、そのときの甲府城代佐藤信崇と甲府代官中山誠一郎は
直ちに彼らと話し合い、甲府城を引き渡しました。
いわゆる無血開城ですが、
実際には、かなりの混乱があったそうで…
甲府勤番士は城中からの立ち退き命令が出て、
郭内の与力・同心までもが退去の支度を始め、
家財道具はもちろん、建物の床板まで引き剥がし運び出し、
その日のうちに、甲府城は、空っぽになってしまったそうです。
どうやら、聞き間違いが原因だったそうですよ…
さて、甲府城は、近隣の村や人すべてに、自由に見学させるように
なりましたが、実はこれには噂がありました。
「あまりに早く勤番士が城内から立ち退いたので、
地雷でも仕掛けてあるのではと官軍側が心配になり、
確かめるために自由に見物させたのでは」というものです。
なんだかちょっと物騒な感じですね。
その後、甲府城は明治5年に、陸軍省の管轄になり、
明治9年には勧業試験場(農業試験場)、
翌年には勧業試験場の葡萄酒醸造所が設置されます。
ここに、山梨の葡萄づくりの片鱗が見えてきます。
江戸時代は、一般の人は、入れなかった甲府城。
時代を経て、さまざまは役割を果たし、
今では、みんなの憩いの場になったのですね。
今月は、更に詳しくお話を伺っていきます。
また来週も、てくてくします。