さて、今週は舞鶴城公園を離れ、
今日は、甲府城を囲んでいた「堀」の跡を、てくてくしていきます。
甲府城の二の堀、三の堀の跡を、
今でも見ることが出来るのできるのですよ。
甲府市教育委員会 歴史文化財課の金子 誠司さんに
今回もお話を伺っていきます。
どうして私たちが、こんな写真を撮っているか?は
このあとのブログで分かります。
それにしても、不思議な写真だな、と我ながら思う。
私たちは最初に、二の堀跡を見ることができる場所に来ました。
ここは、甲府駅南口、西へ200mくらい歩いた
たちばな児童公園へやってきました。
タコの滑り台が目印ですね。
本丸部分を囲むのが一の堀、その外側にあるのが二の堀です。
二の堀には、城の防衛の役割もありました。
二の堀内は、郭内と呼ばれ、勤番士が暮らしていましたが、
明治時代になり、市街地造成のため順次埋め立てられていきました。
ここが、二の堀跡ですよ。
今は、暗渠のように見えますが、お堀なのです。
続いて、もう少し足を延ばして、甲府駅から徒歩30分くらい、
若松町のあたりにやってきました。
ここでは、三の堀跡を見ることができます。
三の堀は甲府城を囲む堀の一番外側にある堀で、
この堀の内側を郭外といって
町人の居住区となっていました。
甲府には、他にも町人の住む町がたくさんありました。
例えば、武田神社の八日市場を移転させて成立し、
「府中第一のよき所也」と呼ばれたくらい賑わった「八日町」。
ここは代々、甲府の町年寄を勤めた坂田氏が居住しました。
そして「山田町」、もとは「伊勢町」と呼ばれたところですが、
ここは綿屋・綿打ち屋が多いことから俗に綿町・綿屋町と呼ばれました。
現在は山梨中銀金融資料館があるあたりです。
明治前期には、製糸業の町になります。
ほかに、甲府徳川家時代に「時の鐘」があった「横近習町」
材木商が多く俗に材木町と呼ばれた「立近習町」などなど、
いまでも、通りの名前などとして、その名残を残しているところもありますね。
なんとなく、歴史があるんだろうな、と思いながら
眺めていた地名も、改めてその成り立ちや歴史を聞くと
面白いですね。
また来週も、てくてくします。