2019年1月 5日 (土)

武田氏館跡大手から……こうふ開府500年ってどういうこと?

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1回目の『てくてくこうふ』では、武田氏館跡大手へ。

甲府市教育委員会歴史文化財課の山下孝司さんに「こうふ開府500年」とはどういうことなのか?500年前に何があったのか?教えていただきました。

山下さん「武田信虎がここにはじめて館を築いてそれから甲府がはじまった、それから500年が経つということになりますね」

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武田氏館跡大手とは、武田神社の東側にあります。

山下さん「いま武田神社に入ろうとすると、武田通りを通って、お堀に渡された橋を渡りますが、これは信虎がつくった館の時代にはありませんでした。そのときの入り口はここ、東側にありました。」

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武田氏館跡大手には、案内板があり、当時をしのぶことができます。

石井由紀子「本などを読んでいて出てくる、馬などが入ってくる場所がここだったというわけですね」

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石塁や土塁などの遺構が整備されていますが、実はこれは武田氏滅亡以降のもの。

番組の中では、時間の関係でふれられませんでしたが、武田氏の時代には三日月形の堀があり、武田氏滅亡のあとに違う形の石塁などが組まれたと考えられています。

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そして、取材は武田神社北西の味噌曲輪へ。

ここは現在も発掘が進められています。

発掘されている味噌曲輪を見ると、壁に囲まれていたり、堀の跡があったりします。ここも武田家の館として使われていた場所なんですね。

武田神社などは他の用途に使われず残っていたのに、なぜ味噌曲輪は発掘が必要なほど埋まっているのでしょうか?

高野さん「武田氏が滅亡したあとは、ここも一度は利用されているんですが、政治の空間が甲府城に移転しまして、主廓と西曲輪が残るんですが、他は畑や田んぼになってしまいまして、ここも元は田んぼだったんですね。」

石井由紀子「滅亡したから、はい、おしまいという感じで違うものに使われているんですか?」

高野さん「そうですね、北側と南側はそういった風になってしまいました。だけど、武田信玄や信虎・勝頼が住んでいたというところで主廓だったり、嫡男の義信が暮らした西曲輪はそのまま武田氏館跡として残っていたようです。」

石井由紀子「館が残してあるというのも、みなさんが武田信玄を敬うような、その原型になっているんですかね。」

かつてあった武田氏の館を思い浮かべながら、甲府盆地を一望する躑躅ヶ崎を歩いてみてはいかがでしょうか?