2019年10月 5日 (土)

10月5日は慶長院から

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今月も、江戸時代に城下町だったエリアを歩いている
「てくてくこうふ」

今週は、甲府城から移築したといわれる「門」がある
お寺、慶長院に来ています。

今回も、甲府市教育委員会の金子誠司さんに
お話を伺います。

この日も日差しが眩しかった…

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慶長院は、甲府市朝日三丁目 旧横沢町にあり、
平安年間に創建されたと言われています。

甲府の府内観音14番札所となっていたところです。
「府内観音」とは、昔に四国八十八か所巡りなどの
大規模な巡礼地を真似て移した、移し巡礼地と呼ばれるもの。
遠くにある巡礼地に行けないひとのために、
作られたものだそうです。

さて、慶長院は、府内観音としてだけではなく、
甲府城から移築した門がある場所としても知られています。

お寺にある、冠木門は甲府城の乾門、あるいは黒門であったといわれています。

乾門の「乾」とは方角を指しています。甲府城に、乾櫓というものがあり、
おそらく、この乾櫓に入るための門であったと思われるそうです。

また、黒門は、門の色が黒いから、黒門と言われています。
どこにあったのかは、定かではないのですが、
お城の北側にあった山の手御門というところではないか、と言われています。

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まだまだ諸説あって、はっきりしないことがあるみたいですね。

門は、よく見るとそこまで大きいわけではなく、
どちらかと言うと、武家屋敷にあるようなシンプルだけど
風格があるものです。

門が慶長院に移築されるのは明治時代になってから。
明治5年の甲府城の跡地が陸軍のものになり、
明治6年に甲府城の内部たけを残して、他は撤去されることになった、
というのが、キッカケかもしれないといわれています。

もし、こちらが甲府城の門だったなら、空襲も乗り越えた
貴重なものになりますね。

さて、慶長院のある、旧横沢町は、江戸時代には
雛人形・五月飾兜、そしておもちゃなどを作る職人が
住んでいた町です。

幕末に「横沢雛」というものが名物になります。
このお雛様、別名を「花背負い雛」といい、
背に桃の花の枝を添えた小さい雛人形です。

なんだかとてもかわいいお雛さまだったように思いますが
大正時代に途絶えてしまうようです。

その他にも、甲州だるまも作られていました。
このだるま、紙は市川大門の和紙が使われたいたそうです。
ひな人形づくりの経験を活かした名人が住んでいたそうですよ。

慶長院の門、そして職人が住んでいた町、
旧横沢町も面白い場所だったのですね。

また来週も、てくてくします。