2019年9月21日 (土)

9月21日は 甲府城の二の堀 三の堀跡を目指す

ここをクリックすると番組を聴くことができます。

さて、今週は舞鶴城公園を離れ、
今日は、甲府城を囲んでいた「堀」の跡を、てくてくしていきます。

甲府城の二の堀、三の堀の跡を、
今でも見ることが出来るのできるのですよ。

甲府市教育委員会 歴史文化財課の金子 誠司さんに
今回もお話を伺っていきます。

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どうして私たちが、こんな写真を撮っているか?は
このあとのブログで分かります。
それにしても、不思議な写真だな、と我ながら思う。

私たちは最初に、二の堀跡を見ることができる場所に来ました。

ここは、甲府駅南口、西へ200mくらい歩いた
たちばな児童公園へやってきました。
タコの滑り台が目印ですね。

本丸部分を囲むのが一の堀、その外側にあるのが二の堀です。
二の堀には、城の防衛の役割もありました。
二の堀内は、郭内と呼ばれ、勤番士が暮らしていましたが、
明治時代になり、市街地造成のため順次埋め立てられていきました。

ここが、二の堀跡ですよ。
今は、暗渠のように見えますが、お堀なのです。

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続いて、もう少し足を延ばして、甲府駅から徒歩30分くらい、
若松町のあたりにやってきました。

ここでは、三の堀跡を見ることができます。

三の堀は甲府城を囲む堀の一番外側にある堀で、
この堀の内側を郭外といって
町人の居住区となっていました。

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甲府には、他にも町人の住む町がたくさんありました。

例えば、武田神社の八日市場を移転させて成立し、
「府中第一のよき所也」と呼ばれたくらい賑わった「八日町」。
ここは代々、甲府の町年寄を勤めた坂田氏が居住しました。

そして「山田町」、もとは「伊勢町」と呼ばれたところですが、
ここは綿屋・綿打ち屋が多いことから俗に綿町・綿屋町と呼ばれました。
現在は山梨中銀金融資料館があるあたりです。
明治前期には、製糸業の町になります。

ほかに、甲府徳川家時代に「時の鐘」があった「横近習町」
材木商が多く俗に材木町と呼ばれた「立近習町」などなど、
いまでも、通りの名前などとして、その名残を残しているところもありますね。

なんとなく、歴史があるんだろうな、と思いながら
眺めていた地名も、改めてその成り立ちや歴史を聞くと
面白いですね。

また来週も、てくてくします。